2011/05/23

「JIDAI MAP MEETING  あれから、およそ100年後の贈り物。(第146回 城下町・彦根の始まり物語 その②より)」

今週は先週の続きで、JIDAI MAP MEETING 彦根城の始まり物語 part2をお届けしました。Part2のストーリーは、後に大老職を代々引き継いでいく井伊家にまつわる物語をクローズアップ。当ブログでは、そんな井伊家にまつわるトリビアをご紹介いたします。

さて、将軍の側近中の側近を輩出し続けた名家・井伊家のなかでもっとも有名な人物といえば、幕末期の「安政の大獄」で皆さんご存知の井伊直弼さんですよね。
井伊直弼さんといえば、開国に対する考えの違いから江戸城への登城途中で、水戸藩士らに斬殺されてしまいますが(桜田門外の変)、そういえば、それ以降の水戸藩と彦根藩はどうなったのだろうと疑問に思われませんか?

そんな疑問に応えてくれるこの二つの藩のその後を示すあるものが、彦根城にはあります。
それは、「桜」。春だけではなく、秋にも花を咲かすという珍しい「二季桜」という品種です。

この二季桜が水戸から彦根に贈られたのは、開国に対する考えの違いから、「桜田門外の変」が起こった1860年からおよそ1世紀経過した1968年(昭和43年)のこと。彦根と水戸との間に横たわった「歴史」が、明治維新以来100年を経過したことを一つの機会に、友好の輪を結ぼうじゃないか・・・いう気運が高まり、敦賀市の仲介により親善都市提携を行ったそうです。そして彦根と水戸は、提携以来、観光物産展などを通して交流を深めているとか。ちなみに、彦根城のお堀にうかぶ黒鳥と白鳥も、おなじ水戸からの贈り物だそうですよ。

次回は、時に歴史をも動かした、「茶の湯」、その大成者・・・千利休に迫ります!

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2011/05/20

「JIDAI MAP MEETING  ひこにゃんの赤カブトの由来に迫る?(第145回 城下町・彦根の始まり物語 その①)」

ゴールデンウィークも終わり、すっかり普段どおり☆な週末の金曜日。
我らがJIDAI MAP MEETINGのテーマは、『城下町時代MAP 上方編』第二段、城下町・彦根の始まり物語その①をお送りしました。

さて、彦根城は関ヶ原の合戦の際に落城した石田三成の居城「佐和山城」の後がまとして、井伊家が建てたお城です。
井伊家とえいば、有名なかの井伊直弼さんの始祖。ここから彦根藩主・井伊家の歴史は始まります。
この佐和山城の落城から彦根城の築城という出来事は、時代が石田(豊臣派)から、井伊(徳川派)に移り変わりつつあることを如実に物語る出来事でした。

さて今週は、この徳川さんの厚い期待を受けた有力家臣・井伊さんにまつわる物語をご紹介します。
徳川四天王として、徳川さんに取り立てられた井伊家の当主…井伊直政と家康さんの出会いは、関ヶ原の戦いから25年前のこと。今の静岡県・遠江の大名だった家康は鷹狩りで15歳の少年・直政と出合います。直政の才能を見抜いた家康は、すぐに家臣に採用。そして、家康の期待に応えるように数々の軍功をあげていきます。

そんな直正は、家康からやがて徳川家の先鋒を任されるようになり、「赤備え」の誉れを頂くことになります。
赤備えとは、鎧・指物(さしもの)(戦国時代以降、戦場で武士が自分や自分の隊の目印として、身体につけた竿のある小旗)・旗から馬具・ムチまでがすべて真っ赤で統一された軍隊のことで、当時無敵と恐れてられていた名誉ある呼び名。
戦場でも最も目立つ色である赤を身にまとう事は、よほどの自信と気概がなくてはできないですよね。
だって、いの一番に的になるから(笑)

ちなみに、この赤備えのルーツは家康の宿敵・武田氏ゆかりのもの。武田氏を滅亡させた家康は、その軍功にあやかり直政に「武田の赤備え」を受け継がせたというわけです。

ちなみに、この赤備えを今現代に受け継いでいるのは、広島の赤ヘル軍団…ではなくって、ゆるキャラマスコットとしてお馴染み、「ひこにゃん」
ひこにゃんの頭には、赤いカブトがかぶせられているので、皆さん今一度、その愛らしい雄姿をご確認くださいませ^^

次回は、城下町・彦根の始まり物語その②をお届けします。


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2011/05/10

「JIDAI MAP MEETING  大阪、その語源に迫る!(第144回 城下町・大阪の始まり物語 その②)」

JIDAI MAP MEETINGは、【大坂城下町ものがたり part2】でした。現在の大阪は、大坂本願寺織田信長豊臣秀吉徳川家康の流れで形作られたんです。いわゆる3英傑が関わっているなんて、本当にすごいですよね。

さて、この大坂の城下町について、意外とみんなが知らないのが、現在の大阪の町はおおむね徳川時代の名残が濃く、豊臣時代の遺構は地中に埋まっちゃってるということ。
というのが、秀吉についで天下を取った家康が、豊臣カラーを消すために秀吉時代の城下町にどさっと土をかぶせて埋め立てて、更地にした上で大坂の町を再度造り直したのです。

そんな大坂城下町にまつわるお話ですが、昔「大阪」「大坂」と記されていました。

「大坂」の「坂」が「土」偏の「坂」から「さかん(こざと偏をそのように読む)」に変わったわけは、ずばりもともとの坂という字が、「縁起」が悪かったから。
土偏・・・土に帰る、ということですね。そうです、大坂の陣の後、大坂は一度土に返ってしまっていましたよね。

果たして、「土に反る」を嫌い「さかん(こざと偏をそのように読む)に反る」とシャレた現在の「大阪」は、幕末頃に当時の地図などでも見られるようになり、明治元年には政府の公印もこざと偏の「大阪」でつくられ、以降「大阪」が普及し、現在に至るようになったのです。

来週は、ひこにゃんでおなじみ!彦根城にまつわるお話をお届けします。

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