2011/04/26

「JIDAI MAP MEETING  お江さんゆかりの東京タワー?(第142回 江 その②)」

お江Part2です!
新パーソナリティーとしてバトンを受け取ってから、早くも4週目に突入されたゴルゴ松本さんと、えとう窓口さん。評判は上々です!

さて、お江さんの後半は、秀吉の名によりわずか11歳で嫁がされ、2度の離婚を経験し、3度目の結婚で徳川家のファーストレディになるまでの波乱万丈の物語を辿りました。

お江さんの3人目の旦那さんは、家康の後継者・秀忠。姉さん女房だったそうですヨ。
夫・秀忠との間には、二男五女の子宝に恵まれたそうなのですが、とくに秀忠を喜ばせたのは、2人が結婚してから9年後のこと……待望の男の子・竹千代が誕生につきます。この竹千代こそ、後の3代将軍・家光なのです!

ちなみに……260年の徳川の歴史の中で、御台所=正室が、次期将軍・跡取りを産んだのは、お江ただ一人。お江さん、快挙です!!

お江さんは、54歳で亡くなったのですが、当時としては大変珍しい、「火葬」で荼毘に付されたそうです。
お江さんが眠るのは、大晦日には除夜の鐘と共にカウントダウンが行われる事でも有名な芝の増上寺(ちなみにパワースポットとしても有名)。
徳川家歴代の菩提寺として有名ですが、さすが天下の徳川家のお墓だけあり、ビックリするぐらい豪華なものでした。立派な建物などの多くは戦火で焼けてしまったため、古写真で往時をしのばねばならないのが残念なのですが、古写真、見るとほんまに驚きます。
さて、この増上寺のお隣には、日本のランドマークで1、2を争うのでは?な有名スポット・東京タワーが控えています。
もともと増上寺は、東京タワーあたりまでを含む実に広大な土地だったようですが、タワー建設の際に、お寺が墓地の一部を提供したそうです。
そしてそして…関係あるのはお隣というだけではありません。
現在、東京タワーが建っている場所は、お江の夫・秀忠が江戸城からカエデを移植して、お江さんのために紅葉山を築いた場所なんだとか。
つまり当時、お江さんが眺めた場所は現在、東京の町並みを一望できるランドマークになっているのです。

10:34 | コメント (0) | トラックバック (0)

2011/04/20

「JIDAI MAP MEETING  女の戦は生きること―戦国時代の女性の生きかた(第141回 江 その①)」

NHK大河ドラマ、お江引き続きみてますよ~!と、私の現在の注目は、萩原聖人さん演じる石田三成さんです^^ 先日、滋賀県の北部に行ったとき、長浜あたりがお江観光の人々でにぎわっていました。やはり女性の方が多いですね。
さて、JIDAI MAP MEETINGでは、現在お江の生涯を二週にわたってお送りしていますが、ドラマの大きな題材の一つが、当時の女性の生き方。個人的にですが、ドラマの中で鈴木保奈美さん演じるお市の方(お江の母)のせりふが印象に残っています。夫・長政を死に追いやった兄・信長に対峙した時のシーンで、お市は

「女(おなご)には女の戦がございます。女は思うまま生きることができませぬ。夫を殺され、織田家にあっては裏切り者とそしられても、死ぬこともならず、抜け殻となって今日まで娘たちと身を寄せ合って生きて参りました。それがいつまで続くのか。明日はどうなるのかもわかりません。
なれば女の戦は生きること。本日ただいまを生きていくことにございます」

本日、ただいまを生きること…かっこいいですね。

さて、そんな戦国時代の結婚形態―すなわち、女性に直接関わる行きかたはどのようなものだったのかといえば、当時の結婚は、ずばり同盟関係を強化するための「政略結婚」が多く行われていたそうです。結婚や女性関係は、武士の社会では重要な意味を持っており、多くの戦国大名と同盟を結ぶため、男性の場合は正室のほか、側室を置かざるを得なくなっていた――政略結婚で嫁いでくる女性は、忠節を裏付ける人質でもあったから、相手の武将の娘や姉妹など、血縁の濃い女性をもらうことになる。恋愛結婚はほとんどなく、特に正室の場合は、顔を見ずに決めるのが普通だったとか。
側室になると、一目惚れで所望する場合もあったそうですが、おおむね女性側に選ぶ権利はなく。さらに、政略のために嫁いだ女性には、嫁ぎ先の様子を実家に知らせる諜報員としての役目もあったそうです。

うーん、なんだか結構大変そうな感じですよね。現代の感覚でいえば、政治の道具のような感じも否めませんが、当時の人々はどのように感じていたんでしょうか。
時代が変われば価値観も変わると思いますので、今の感覚では一概には言えないかもしれませんよね。

来週も、お江のパート2をお届けします。お楽しみに!

18:35 | コメント (0) | トラックバック (0)

2011/04/11

「JIDAI MAP MEETING 本能寺ってどんなお寺だったの?(第140回 “本能寺の変に隠された謎”より)」

4月の第2週のお題は「本能寺の変の真実」。
最近(2007~2008年の発掘調査)では、本能寺は発掘調査の甲斐もありさまざまな発見も取りざたされているようです。

そんななかで興味深いのが、往時の本能寺の姿を一部ですが、髣髴とさせる発見があったこと。これまで、もはや焼失してしまった本能寺はどんな姿だったのか?が推測されていましたが、その一つが
本能寺は、ただの城ではなく城砦さながらの防衛施設を備えた寺院だった」というもの。

これは、本能寺を含む法華宗の本山寺院がどれも堀や土塀を築き、要塞としての機能を備えていたといわれていたといわれていたことが大きな要因らしいですが、あくまで文献上の話だったので、推測の域をでませんでした。
しかし、この遺跡発掘の調査では、推測されていた堀と石垣の以降が発見されたのでした。

信長が本願寺を宿所にしたのは、本願寺が鉄砲の入手ルートに関わっていたためという説もあります。
当時のお寺は、今のイメージとはだいぶ違うものだったのかも知れません。

さて、現代に伝わる本能寺の変では、信長はいとも簡単に死に追いやられたイメージがありますが、どうも宿所はまったくの無防備というわけではなかったようです
そうなると明智光秀の行動も、また違った角度から見ることもできるのでしょうか??

15:14 | コメント (0) | トラックバック (0)