2010/09/28

【JIDAIMAP MEETINGおさらい】佐賀藩、幕末のプロジェクトX

佐賀藩について2週に渡って紹介。

9月ももう最終週になりましたね!
ここ数日で、ぐっと秋らしくなってきましたので、休日前の秋の宵を、ラジオでゆったり過ごすのはいかがでしょうか?

さて、今回のテーマは、「佐賀藩!」
“薩・長・土・肥”の“肥”。“肥”を肥前藩(ひぜんはん)=佐賀とわかる方はどのくらいいらっしゃるのでしょうか?
私なぞは、“はなわ”・・・?とついぞ、思ってしまい…。スミマセン!

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ちょっと影が薄いような気がするんですが…
佐賀藩って?

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さて、佐賀藩は薩長土肥の一つに入っているように、西南雄藩の一つとして、強い力を持つ藩だったのですが、失礼ながら…影が薄いと思いませんか?
なぜ故!!?と調べてみたところ、政治の表舞台に、積極的に登場してくるのが、佐賀藩の場合は本当に幕末も末期。戊辰戦争あたりからなんです。

それがどうしてかというと、この戊辰戦争当たりに至るまで、佐賀藩は自藩の掲げる旗の色(幕府か、反幕府か)を明確にせず、こと国政に関してはのら~りくらりとかわしつつ…鬼の如く、自藩の科学技術力の発展に心血を注いでいたからなんです。

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薩摩もびっくり!!?
実はすごい、佐賀の科学技術力

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その科学技術力がどのくらい凄かったのか調べてみると、世界に遅れをとっていた日本で、いち早く西洋の科学技術を取り入れ、世界と引けを取らないレベルのものを作り上げるまでになっておりました。どんなものかというと…

▲日本初の洋式反射炉(はんしゃろ)(製鉄所)を建設 
▲24ポンドカノン砲の製造に成功 
▲日本初の蒸気機関車と蒸気船の模型の製造に成功 
▲日本初、電信機を製造 
▲世界最先端の大砲・アームストロング砲の製造 
▲蒸気機関外輪船を製造

当時、最も進んでいた藩といわれていた、薩摩藩を上まわる科学技術力をもってたんですよ!意外じゃないですか?

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原動力は、稀代の名君・鍋島閑叟公
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しかし、佐賀藩って、どうしてこの混乱のご時勢に、こんなことができたのでしょう?
何しろ、時代は、攘夷やら開国やらで、皆、熱に浮かされたように右往左往しているとき。コツコツとわが道を驀進していたその力の源、それはずばり、佐賀藩が誇る名君の第11代藩主・鍋島閑叟(なべしまかんそう) の手腕!
この方は、藩主に就任した頃から超ド貧乏な自藩を立て直すという、ヘビーな使命を背負っていたわけですが、そんな閑叟発の「自藩だけの路線」を突き進んでいった大きな要因のひとつとして、佐賀藩独自の立ち位置がありました。
長崎警護を務める藩だけに、海外情勢に詳しく、その脅威をもろに受けていたためだといいます。あれこれ起こる問題の中、口先だけの攘夷論では何の意味もないと理解していた閑叟は、藩士たちと他藩との国交も禁止し、二重鎖国をとる中での――“幕末のプロジェクトX”に着手します。

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断られちゃってたので…
秘密裏で研究開発してました

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この閑叟、一度は欧米に対抗する為には軍事力の強化が必要不可欠と幕府に進言しますが、幕府は却下。幕府には秘密裏に佐賀藩だけの力で実現するべく行動に移していきます(ちなみに、当時幕府は、藩が独自の軍隊や軍備を持つ事を禁止してました)。
そして、鉄製大砲の鋳造や、火薬の調合等、西洋科学の研究所“火術方”や、西洋理化学の研究実験施設“精錬方”を設置。佐賀藩が誇る“泣きの名スカウトマン”!!?佐野常民が動き、他藩の天才たちをヘッドハンティング!という驚きの活動を繰り広げていきます。佐野が誘致に成功した天才の中には、後の東芝の元となった芝浦電の創設者・からくり儀右衛門こと、田中久重もいました。

そして、各々の力を結集し、後に、世界と同レベルの大型大砲の製造などを次々と成功させていくのです。

来週も、佐賀藩の続きに迫ります!

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2010/09/21

【JIDAIMAP MEETINGおさらい】幕末の商人 トーマス・グラバーに迫る

ジョン・万次郎の次にバトンを受け取ったのは、トーマス・グラバーさん。グラバー園、といえば、皆さん結構ご存知でしょうか?そうです、あの長崎の名所は、もともと、このグラバーさんの邸宅だったわけです。

さてさて、そんなグラバー園で有名なグラバーさん、何をしていた人か皆さんご存知でしょうか?後世、彼は「死の商人」とも称されますが、その名の通り、武器も扱う商人でした。実は、グラバーは自身の記録をあまり残したがらない人だったのですが・・・そんな謎に包まれた、グラバーの人生に迫ってみました。

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スコットランドのお坊ちゃま、
ブームに乗る!

まず最初に、簡単に経歴を。生まれはスコットランド。父をイギリス海軍大尉に持ち、龍馬よりも3つ年下のお坊ちゃま。(なんか、もっとオジさまのイメージがあったのですが以外に若かった)
母国では海外で働くことがブームになっており、若きグラバーもその波にしっかと乗りました。最初は中国(清)に上陸、そこで貿易業の経験を積み、やがて日本に転勤。野心(向上心?)あるグラバーさんは、転勤先の日本で独立を果たします。それが、グラバー商会の始まりです。

グラバー商会設立。その失敗と成功
グラバー商会が、最初に着手したのは、日本茶の輸出業でしたが、これが残念な結果に・・・。じゃあ、何で成功を納めたのかというと、これが“武器”でした。折しも、時は幕末。薩英戦争やら、国内のごたごたがアレやコレや起きるとき、やはり必要とされるのは武器。軍需産業です。グラバーさんは、独自の敵味方関係なく商品を売るという「あくまでモノを売る商人」に徹し、成功を収めます。

徳川家にとって私は・・・
“倒幕派の志士達”に、武器や戦艦を販売し、その為、間接的に倒幕運動を進めた人物と言えるグラバーさんですが、自身で「徳川家に反逆した者の中では、私が最も大きな反逆者だ」と称しています。この辺り、複雑なものがあったのでしょうかね・・・。
また、日本の青年達のヨーロッパ留学の手助けをし、自分の財産を彼らの留学資金に充ててサポート。世話好きで、面倒見の良い性格だった事が伺え、彼という人はどんな風だったのかなと興味を持たずにはいられない感じでした。

奥さんを生涯愛しました
因みに、長崎を舞台にしたオペラ「蝶々夫人」・・・この「蝶々夫人」のモデルになったのがグラバーの妻・ツルさんだと言われています。グラバーさんは、オペラとは違い、奥さんのツルさんを生涯愛し続けたようです。ほっ・・・^^

来週は、幕末のプロジェクトX・佐賀藩に迫ります!

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2010/09/13

【JIDAIMAP MEETINGおさらい】アメリカに上陸した初めての日本人、ジョン・万次郎の波乱万丈人生に迫る②

【10年ぶりに日本へ!】
先週に引き続き、ジョン・万次郎Part②!!
帰国を決意した万次郎が日本へ辿り着いたのは、嘉永4年(1851)。なんと約10年ぶりの帰国です。14歳だった万次郎は24歳の青年に・・・。万次郎達は琉球(現・沖縄県)に上陸しました。

【入念な取調べの数々】
当時、琉球は薩摩藩の統治下にあり、上陸してすぐに、罪人として3人は身柄を拘束。漂流したいきさつ等について、薩摩藩の役人から繰り返し取調べを受ける事になります。琉球で取調べを受けた期間は、なんと7ヶ月!しかし、身柄を押さえると言っても牢に入れるなどという厳しいものではなく、比較的自由が約束されたものだったそう。

【薩摩の殿様・島津斉彬との出会い】
そして、取調べの舞台は琉球から薩摩藩へ。なんと、薩摩の殿様が直々に万次郎を取り調べたいとのオファーがあったのです。人払いをしてからの取調べは「アメリカの話を聞かせろ」というもの。「信頼できそう!」。ビビビっときた万次郎は、殿様に自分が知る限りのアメリカの歴史や実情を伝え、日本に迫る喫緊の自体を回避するには、一刻も早く開国すべき、と必死の覚悟で語った。ちなみに万次郎の話をじっと聞いている、この殿様こそ、幕末の名君主の一人、島津斉彬公。
万次郎の訴えの正しさも即座に理解し、そして万次郎の身を守る為、「今後どのような場面でも、帰国の理由を聞かれた時は「母が恋しい一心で帰って来たと言い通せ。間違っても「日本を開国させる為」などと言ってはならぬ。命をなくすぞ」と忠告。長崎へ送られる際、長崎奉行宛ての送り状には、「万次郎は賢くて覇気があり、将来必ず国の為に役立つ人材なので、決して粗末に取り扱わないように」と斉彬自身の署名で書かれました。

【故郷・土佐に到着!】
その後、生まれ故郷土佐に到着した万次郎は、同じく新しいもの好きの土佐藩主・山内豊信(容堂)からも、取調べをうけたそう。この事情聴取の際の記録係を担当したのが、河田小龍(しょうりょう)。彼は、土佐藩お抱えの絵描きで、彼が記した書籍から、坂本龍馬はジョン・万次郎の見聞を知り、海外への興味を一層深めたそうです。

【日本初の英語の先生に大抜擢!】
その後、万次郎は身分制度の厳しい土佐藩の中でなんと武士に取り立てたてられます。そして、日本初の英語の先生となりました。生徒には、龍馬伝でもおなじみ、後に政治家として大成する後藤象二郎そして三菱の創始者となる19歳の岩崎弥太郎らがいたそうです。

【ペリーのおかげで出世!土佐から江戸へ】
万次郎が帰国してからの日本は、猛烈な勢いで動乱の渦に巻き込まれていきます。ペリーの浦賀港への来航。なんと、ここで幕府は噂に聞きし万次郎の登用を決定。「外国の様子を尋ねたいので江戸に呼び寄せて貰いたい」というものでした。その後、江戸に移って間もなく、26歳の万次郎は幕府直参(江戸幕府に直接仕える武士)に出世。以降、万次郎は故郷の中ノ濱から名前をとって、中濱万次郎信志と名乗り――さまざまな辛苦も舐めながら、開国に向かう日本のために、奔走していきます。

【晩年の万次郎】
江戸幕府が倒れ、明治になってからは、万次郎は明治政府からも開成学校(東京帝国大学の前身)の教授に任命され、活躍していくことに。そんな万次郎ですが、それまでの無理が祟ったのか、晩年は様々な病に見舞われてしまい、通訳など公の場での仕事を全て断るようになりました。そして明治31年(1898)11月12日、万次郎は71歳で永眠。家族に囲まれた、穏やかな老後だったそうです。

来週は、幕末のプロジェクトX、佐賀藩に迫ります!

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