2010/05/12

【JIDAIMAP MEETINGおさらい】坂本龍馬と女たちpart4 続編/ 龍馬・佐那 がんばったよ!その後のお佐那さん 

先週に引き続き、テーマは千葉佐那さん・パート2.婚約を誓い合った龍馬と佐那。しかし、龍馬は――。さっそく続きを知りたいところですが、彼女に関する新しい情報発見!の速報です♪♪
 

>>☆速報☆相当の美人だった
ドラマでは、貫地谷しほりさんが演じる佐那さんは、ほんまに美人だったそうです。なんでも、最近発見されたという宇和島藩(現・愛知県宇和島市)8代藩主伊達宗城の記録「稿本藍山公記」に彼女の事が書かれているそうです。宗城は、伊達家の姫君に剣術を教えていた佐那(19歳)さんを、「容色モ、両御殿中、第一ニテ、薙刀ニモ、熟達シ」と記していたとか。江戸にあった。伊達家の2つの屋敷に出入りする女性の中で、彼女を一番美人さんとみていたことが分かります。


さてさて、先週の回で放送したように、平和になったらゼクシィ買おう(違う)と約束していた龍馬と佐那さん。婚約した佐那さんは、縁談も断り、龍馬をずーっと、待っていたそうです。そして、そんな彼女が、知りたくなかった事実を知るのが…慶応3年(1867)、佐那さん31歳の時。龍馬が京都で暗殺されたことを知らされます。


【龍馬の死を知った佐那さんは】
失意の佐那さんですが、維新後には父・定吉が亡くなり、兄・重太郎一家は道場を処分…そして京都に移り住む事になったそう。妹の一人は嫁ぎ、一人は早世していたため、一人になってしまった彼女は、紹介で学習院女子部の舎監(寄宿舎の監督者)として働き出すことになります。


【ワーキングウーマン時代に龍馬を題材にした…】
編集長、ここで満を待して…学習院にいた頃、佐那さんは龍馬の事をさらに忘れられなくなるようなハプニングがあったんだとか…それは!!坂本龍馬といえば、今や、日本史上でもっとも有名で、かつ人気のある人物といえますが、当時は無名の人。そんな彼が、俄に脚光を浴び始めるのが、明治16年、坂崎紫瀾(しらん)が龍馬の伝記小説『汗血千里駒(かんけつせんりのこま)』(龍馬を主人公に据えた史上初の小説/『土陽(どよう)新聞』)の連載を開始されたことによります。
なんと、作品では、龍馬と千葉周作の娘・光子とが恋仲であったという設定になっていたという。。
モチロン、実際には光子という娘はおらず、事実と異なることに佐那さんはブチッ!とキレます。そこで、彼女は龍馬の形見である紋服の片袖を学習院女子部などで多くの人にみせ、光子が架空の人物であること、自分こそが生前の龍馬と婚約していたことなどを力説したそうです。
お龍さんは、死ぬまで自分は龍馬の妻と、一方佐那さんは婚約者だと誇り高く語る…龍馬さん、魅力ある男性だったんでしょうね。

                                
【お灸の先生になりました】
学習院女子部⇒華族女学校となり、舎監の職を辞めた佐那さんは、以降千葉家伝来の「灸」を生業として千住にひっそり暮らしたそうです。その名も「千葉灸治院」。なんだか、今も探したらありそうな名前ですよね。ちなみに、この家伝の灸は、伯父・千葉周作と父・定吉が、水戸藩主・徳川斉昭に伝授されたものらしいです。なんか、すごそう…水戸の徳川斉昭というところが!


【なんと、板垣退助の紹介で】
それは、今で言う“鍼灸院(しんきゅういん)”のようなもので、後に自由党総裁・板垣退助の紹介で、甲府の自由民権運動家・小田切謙明(けんめい)・豊次(とよじ)夫妻が、ここを訪ね、治療を受けるようになったのだとか。夫妻は板垣から「龍馬縁故の女性」と紹介されており、治療を通じて佐那の身の上に同情を寄せ、謙明亡き後も、豊次夫人と佐那の親交は続いたのだとか。


その後、晩年に千葉灸治院の経営で名声を得た佐那は、生涯独身を貫いた末に、明治29年10月15日に59歳で病没しました。ちなみに、墓碑表面には「千葉さな子墓」と、裏面は「坂本龍馬室」と刻まれています。「室」は「妻」という意味。

一人の男性を一途に思い続けていた佐那さん…。この【龍馬と女たち】で、さまざまな女性の足跡を辿りつつ、幸せってなんなんだろうなあ…と女子っぽく考えてしまいました。
でも、龍馬さんはやっぱりハラハラするとおも…

2010年05月12日 11:55

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