2009/12/10

【JIDAIMAP MEETINGおさらい】こんなところ来とうはなかった!!? 超エリート・遣唐使の過酷な旅路に迫る

12月の第一回目のJIDAIMAP MEETINGは、流行語大賞の候補ネタで開幕デス。

・・・エコカー減税、1000円高速、オバマ政権、政権交代、ひな壇芸人、1Q84、婚活、草食系肉食系、弁当男子・・・などなどに混じり、異彩を放っていた

①“アシュラー”(阿修羅像好き女性)
②“歴女”
そして、
③“こんなところ来とうはなかった!!”(笑)

やはり、歴史ブームですね。
個人的には、③番目は、相当いろいろなところ(+シチュエーション)で使えそうだなあと思うのですが、その一例として12月の最初の二週でご紹介する遣唐使でいうならば、当時、もし私如きのヘッポコが派遣されたとしたら間違いなく――

『こんなところ来とうはなかった!!!!!』(大号泣)

すると思います。
(超エリートが選ばれる時点でまず確実に無い
あるときは、海の上で、あるときは、唐の宮廷で、あるときは、遭難先の諸外国で・・・・

そのくらい、遣唐使はすごく過酷な試練を担った、過酷な旅路を行きかった人たちなのです。
命がけでした。

ちょいと長くなりましたが、さてさて、遣唐使とはどのような役割だったのか?
・・・なぜ派遣されたのか・・・苦労話も交えて ご紹介します。

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そもそも、なぜ派遣された?
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遣唐使に至る前の、遣隋使時代からお話は始まります。
隋や唐は隣国と言いながらも超大国で文明も進んでいました。遣隋使は、隋が唐に滅ぼされた為、わずか4回(諸説あり)で終了。618年に中国大陸を支配した唐は、隋以上に中央集権体制が徹底し、法整備がされていた。
大和政権は「学ぶ所が多いなり・・・」と外交関係の樹立・・・遣唐使の派遣を決定したそうです。

そしてみなさんご存知、犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)を大使とする第1回 遣唐使が堂々デビュー。日本の存在をアッピール!
目的には、遣隋使の時代に渡航した日本人の動静を探り、帰国させるという目的も持っていたそうです。

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結局何回派遣された?
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編集長バシッと!
『全体の遣唐使派遣回数は、諸説あるが一般的な説では任命は20回。実際に渡航して派遣されたのは15回か16回。ちなみに最後の遣唐使の派遣は838年でした』

894年、菅原道真が遣唐使の大使に任命されるも、派遣の中止を意見。廃止された理由は唐の衰退に伴う治安の悪化など・・・
憶えましたよね、“白紙(894)に戻った遣唐使”!

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どのくらいの人数で唐まで渡ったの?
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唐に渡った人は1回に500~600人。この内、政府の命を受けた正式な大使や副使などは10人余りだそうです。以外に少ない。
あとの数十人が船員や通訳。残りの数百人は自ら志願して選ばれた留学生や学問僧などなどでした。
ちなみに、陰陽師とかもいたんですよ!

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選ばれるオトコの条件
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大使は、天皇の代わりに日本の代表として行くもの。その条件は、おのずと高いです。

第1に「大勢の人を率い、指図できる統率力」
第2に「姿形が立派で所作もバシッとしている(“イケメン”)」
第3に「学問を深く学び、優れた詩や文章が作れる」

優れた詩や文章が作れるというのは、この頃の賢い人の必須科目だったわけですが、

だれか紹介してくれませんか?(笑)

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遭難は?
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派遣された総数40数隻のうち10数隻が遭難。
遭難の多さの原因には、まず造船技術の未熟さ、そして、航路や天候などの諸条件さまざま。遣唐使の多くは夏の終わりから初秋にかけて出発しているが、帰りは季節が一定しておらず遭難は帰路に多かったのだとか。
ちなみに、その帰国の途にまつわる悲劇的エピソードで、第10回遣唐使船について。
第1船、第2船は無事、第3船、第4船は遭難、特に第3船は遠くマレー半島(現在、北部はタイ、南部はマレーシア)あたりまで流されたそうです。
乗客105人のうち、住民に殺されるほか、90人余りが熱病にかかって死んだ。
帰国したのはたったの4名だったといいます。

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到着後も大変でした。
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遣唐使は、唐に到着してからも、気が抜けませんでした。
長安(ちょうあん)の都(唐の首都)は揚子江口から更に1400キロの遥か彼方。
日本の本州を縦断する程の距離だったそうです!!!

気を失いそう・・・。

長安へ行くためには、大運河を船 →馬車と馬を乗り継いで旅を重ね、陸路だけで2ヶ月以上もかかる長い長い旅路。
しかも、全員が入京できなかったそうです。
それというのは、長安への案内、食事や宿舎、荷物を運ぶ人々の用意etcetc……遣唐使にかかる旅費や滞在費も、すべて唐からのもの。唐への使節は日本だけでは無かったため、その費用は莫大な金額になり、大帝国の唐にとっても大変。そこで費用節約のために、長安の都に入京できる人数を制限。第13回目の遣唐使の場合は、長安に入れたのは43人だけだったそうです。

こんな過酷な条件で、『二度と日本に戻れないかも知れないかも……』と思いながらも、それぞれの使命のもと、唐に旅立つ人々。
使命を果たそうと、ものすごく強靭な精神力と責任感を持っていたのでしょう。


私でしたら、確実に

『こんなところ来とうはなかった!!!!!』(大号泣)

します。(ひつこい)

来週は“鑑真の渡来”“唐から日本に伝わったもの”“遣唐使たちのその後”をご紹介します!

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